し尿汲み取り
バキュームカーが普及する以前(昭和30年代前半)は,し尿を樽で運んでいた。便所の汲み取る場所が家を挟んで道路と反対側にあり,そこまでの路地もなかったりする場合,肥樽を肩にかつぎ新聞紙を敷いた家の中を通るということもしばしばであった。作業も大変で,狭いトイレの中で,短くした手汲みでこぼさないように汲み上げる慎重な作業が要求された。
その肥樽は,両脇を鉄のかぎで引っ掛けて吊り下げるようになっているが,し尿から出る有害ガスのため腐食し壊れやすくなる。その金具が壊れると場所によっては,大騒動になる。
着物の反物を売っている店の中を通っている時に反物の上にこぼしてしまい,店の人にはしこたま(大変)怒られ,「弁償してくれ!」となった。平身低頭で謝り,店の中をきれいに掃除し,反物も洗濯し,請求の半額だけを弁償して許してもらうことができた。
また,八百屋の店の中で品物の上にこぼしてしまったことも。さすがに,これは食べ物なので全額弁償しなければならなかった。まさしく「こぼれ話」である。
この頃は清掃労働に対する偏見が根強く,作業員は手拭いでほっかぶりし,マスクとサングラスが,いわば清掃スタイルであった。
収集したし尿をトラックで貯溜槽へ運ぶ途中での出来事
ある夏の暑い日であった。し尿を満載したトラックは,当時,道も舗装されていないため揺れが激しく,暑さもありガスの発生が激しく,樽から臭いと共に溢れ出ていた。
トラックが道を急いで走っていたところ,スピード違反取り締まりの白バイに捕まってしまった。そこで運転手は,機転を利かせ,慌てたふりをしながら「早く車を動かさないとガスが爆発してし尿が飛散ってしまう!」と言ったため,それを聞いた白バイの警察官はし尿がかかったら大変と思ったのか慌てて,「わかった,もういいから早く行きなさい!」それで事なきを得たのであった。
我々からすればあの様な密閉状態の悪い樽で爆発など起こり得ないことが分かっているので,この様に言うこと自体考えられないことである。警察官も騙されたふりをしたのか本当に騙されたのかは判らない。
バキュームカー
し尿の汲み取りが,手汲みからバキュームカーに変った頃の話である。
この頃のポンプ車には,2,000Lまで入るタンクを積んでいたが,タンクの上部に空気がたまるため,通常は1,800L位までしか入らない。
一度に多くを運ぼうとするので,知恵を働かせて,2,000Lまで入れるようにテクニックを駆使する。
どうするかというと,一人がホースの先を押え,もう一人の運転手が上部に貯まった空気とし尿を便槽に少しはきだし,その後一気に吸込む。詳しくは分からないが,そのはきだし方にテクニックを要するのだそうである。
ある日も,そのようにギリギリまで吸込もうとし,し尿を便槽の中に戻したが,相棒が小用のため現場を離れていたのでホースの先をおさえる人がいなかった。
そのため,ホースの先が暴れ,抑える人がいないため,なんと台所の中に入ってしまったのである。それを知らない運転手が相棒からの合図がないので,おかしいと思いながらも,何度かその作業を続けたから大変。台所の炊飯器から畳やテレビに至るまで,し尿が飛び散ってしまったのである。慌てて戻った相棒がクソまみれになってホースを抑えている姿に気づいて,作業をストップしたのだが,後の祭りである。
家の人に散々怒られ「消毒して,汚れたものは弁償してくれ!」と言われる始末である。
市民からすれば当然の要求である。仕方なく,汚れたものは個人で弁償し,部屋中を綺麗に掃除して,清掃局の職員が白衣を着て保健所の職員のふりをして,クレゾールをまいてようやく許してもらうことができた。
高砂貯溜槽(昭和30年〜)での出来事
高砂貯溜槽は,バキュームカーで運ばれてきたし尿を一旦貯めておく場所であり,地面の上にコンクリートの槽が乗っている施設である。この貯溜槽の下部には周辺の農家の人がし尿を畑に肥料として利用し易くするための水道の蛇口のようなものが設置してある。
ある日,バキュームカーの運転手が,バキュームカーの後ろのダブルタイヤに石が挟まったのに気づいた。その石を手で取ろうとしたが,なかなかとれないため,その石に太い縄をかけ,もう一方を貯溜槽の蛇口にかけて引張って取ろうとした。しかし,石は取れなかった代りに,その蛇口が根元で折れてしまったので大変。中のし尿が溢れてきたのである。運転手はあわてて車から降りて体で止めようとしたが,し尿の圧力には勝てず溢れるばかりであった。貯溜槽の中の異物がその蛇口に詰り止まった時には,辺り一面し尿の海であった。
更に,そのし尿が農業で使う堀に流れ込んでしまった。それを農業用水に使っている農家の人が,堀の清掃をしてくれたのであるが,大変な作業であった。それ以来,堀の掃除をする時は,仙台市から一万円程度の“謝礼”をもらっていたとのことである。現在は,施設も廃止され周囲は住宅地となり,当時の面影はない。
この貯溜槽での出来事(追加)
昔は樽に集めてきたし尿をこの貯溜槽に手作業で入れていた。
この入れ方にもコツがあって入れた瞬間に体を避けないと「おつり」がくる。
更にこの投入箇所が限られているため,後から別な作業員が来てあおられると急いで作業を終わらせなければならない。
一度に20個位の樽であるから大変である。
ある日,作業を急ぐあまり,その貯溜槽の中にし尿もろとも入ってしまった作業員がいた。
その日はし尿もいっぱい入っており,ぶ厚いスカムが壁面に付いていたので,その上に落ちて事なきを得たが,そのスカムの切れ目にでも入ってしまったら大変だったであろう。
チリ地震津波(昭和35年)
し尿の処理は,海洋投棄船により海洋投棄をしていた。
し尿の海洋投棄船青葉丸は,運搬するものが,黄色い色をしているだけに,仲間内では黄金丸と呼ばれていた。
これは,青葉丸がまだ就航する前,小型の汚物処理船第1〜3清仙丸で海洋投棄をしていた頃の話である。
ある日,その清仙丸が出発前,港に停泊中に乗組員の一人が潮の異常に気がついた。そこでさっそく海上保安庁に問い合せたところ何も変ったことは無いとの返事であった。乗組員は,不安に思いながらも,投棄しなければ貯まる一方のし尿を海洋投棄するために沖に向かった。
沖に向って出て行く時である。滝のような巨大な波が沖の方から押寄せて来た。
船長が驚いて機関長に「機関長どうする!」と叫んだ。
機関長はすかさず,「突っ込むしかありません!」
船長は,「あの高波に突っ込め!」と号令を下した。
清仙丸はその高い波に突っ込んで行き,事なきを得た。
そのままでいればし尿もろとも転覆し何人かが死亡したかもしれない。優れた操縦技術で波に突っ込んだお陰で船も乗組員も難を逃れることができた。もしこの清仙丸が沈没していたら,市内の便槽は,処理先を失った汚物であふれるところであった。当時の職員の間では,「勲章もの」と言われた。
その大きな波がチリ地震津波だったというのは後で判ったことである。
<青葉丸>
チリ地震津波の後始末
この時期に市内で稼働していたバキュームカーは昭和35年5月に起こったチリ地震津波の時大いに活躍した。仙台市は特に被害はなかったものの,志津川(現在の南三陸町)では甚大な被害に見舞われた。当然し尿も溢れ出した。そこで仙台市のバキュームカーが手伝いに行くことになった。バキュームカー3台と職員7人とで1週間交代で2週間の作業であった。はじめの班は現地の人も忙しく待遇は良くなかったが,次の班の人たちには大変なもてなしだった。毎晩ドンチャン騒ぎであった。
それは,町の片付けも一段落し,海水でいっぱいになった自分の家の汲み取りを早くしてもらいたい町民が手土産物を持って職員にお願いしに来たからであった。
し尿の海洋投棄
青葉丸による海洋投棄は昭和36年〜50年に行われた。しかし,この船による海洋投棄はお天気次第で,海が荒れると沖に出ることができなくなり処理が滞る。そこで,蒲生海岸の市有林に施肥を兼ねて大きな穴をあけて,海洋投棄ができない時は,そこに投棄するようにしていた。始めはよく浸透したのだが,段々浸透しなくなって行った。そこは,今は仙台新港となり,当時の面影は残っていない。
海洋投棄は廃棄物処理法の改正により禁止され,昭和49年に青葉丸も廃船となった。その青葉丸の舵は,代々清掃局長室に飾られていたが,現在は,今泉工場の「ごみ-PAL」に展示されている。当時の事を知る人は少ない。
この時に海岸に設置された職員の詰所は,そのままの形で森郷埋立地の職員の詰所になり,森郷埋立地が閉鎖されるまで清掃局らしく再使用(リユース)された。