森郷埋立地 (昭和46年〜61年)
森郷埋立地は,昭和46年10月から埋立てを開始した。
埋立て開始間もない12月に場内火災が発生した。職員は総出で消火にあたったのだが,ごみにいくら水をかけても消えなかった。
そこで消火のために土をかけることにして近くの山から土をダンプ6台で運んだ。しかし,火はなかなか消えず,周辺の杉林にまで燃え移ってしまった。
その先には利府の町があったので担当者は必死であった。結局,約10日間燃え続けようやく鎮火した。
その時の職員の苦労は,煙に巻かれながらの大変なものであった。煙で目がやられるため市立病院の看護師さん三人を派遣してもらい仮設のテントを張り,目を洗ってもらいながらの作業であった。
森郷埋立地のある利府町からの消防隊の援助もあった。申し訳ないので,昼食は,うな重,夕食はお酒もついた。その為なのかどうか,お昼近くなると消防隊員の数が不思議と増えてきた。
それに比べ仙台市の職員は,おにぎりだけだった。
(廃棄物資源循環学会誌 Vol.28 No.3 2017)
森郷埋立地が整備(昭和46年)される以前の埋立地
森郷に本格的な埋立地が,整備される以前は,様々な窪地や池沼などに廃棄物を埋め立てていた。その頃の話である。
ごみの埋立てに使用する場所には,そこから有価物を集めてそれを売って生活をしている人が集まってきた。埋め立て場所には,一般の人も捨てに来るが,何といっても市の収集車から出るごみには良い物が人っているらしく,大分喜ばれた。フィリピンで問題になっていたスカベンジャーの先駆けみたいな人達である。
海岸に近い小牛沼(おごぬま)もその一つであった。ここへの埋め立ての大変な点は,沼の中の水対策であった。幸い,近くに貞山堀があったので,そこまで水路を掘って,埋め立てながらその水が貞山堀に流れ込むようにした。ただしその排水は有機物によって汚染されることになったが問題視されることはなかった。
旧松森工場の近くの畑の窪地も埋立てに使われた。その土地の所有者がその畑の土を売って一儲けをした後,もとに戻す為にごみや残灰を埋め立ててくれとのことであった。利害関係が一致して,清掃局はこれ幸いとばかり,更にその穴をブルドーザーで深く掘った。しかしあまり深く掘りすぎたので(深さ5b位であったろうか),ブルドーザーが自力で穴から上がることができなくなった。いろいろ工夫をしても脱出できず,最後は,近くの鶴ケ谷団地を造成していた大型のブルドーザーを借りてきて太いロープで引っ張り上げた。
現在では,廃棄物処理法も改正され,これは,不法投棄として罰せられることになる。
災害時の埋立地
宮城県沖地震時の混雑
宮城県沖地震の時の埋立地の混み具合は大変なものであった。
通常は,街はずれにある原町事業所で計量し料金を払って埋立地へ,あるいは,埋立地の麓の計量所で料金を支払い,埋立地に運んで行く。
だがこの時は,災害ごみで無料ということと,あまりの搬入車の台数の多さのため原町事業所では計量せず,埋立地の計量所でも見た感じで計るいわゆる「めかん」で重量を計った(搬入量の正確さには疑問符が付くようであった。)。
そのため埋立地入口を先頭に大渋滞になった。その車の多さは,埋立地から山の麓の計量所まで2km位,更にその後ろの県道にはみだし,2km位,つまり4〜5kmの大渋滞だった。
県道は道幅が狭く,一般の車も巻添えになり,交通の整理にあたった職員が大変怒られた。
通常一日で200〜300台程度の搬入車がなんと1,500台にもふくれあがった。
(廃棄物資源循環学会誌 Vol.28 No.3 2017)
昭和61年8月5日の豪雨(8.5豪雨)
災害が発生したときは,様々なものが運び込まれる。
例えば,ラベルが濡れたという理由でケースごと廃棄される高級輸入洋酒,少々濡れた自動車のシートカバー等の自動車用品,スリッパ,缶詰等の小物から家具調電気こたつ等まで実に様々で,人間が生活するのに事欠かない位あらゆるものが廃棄された。
これらは,いずれも品質は全く変化していないのに,災害によって包装が壊れたり,濡れたりして「消費化価値」が無くなったものである。
排出業者は保険で被害をカバーするため,確実に埋め立てられたところまで写真を撮る。何とももったいない話である。
埋立地の職員曰く「ここでテントを張っていれば,豪華な生活ができるな。」