旧今泉清掃工場 (昭和43年〜51年)
清掃工場の運転作業は24時間行っている。
その為,運転係の職員は4つの班に分れており,日勤(8:30〜16:45)と夜勤(16:30〜翌朝9:00)に交代するシステムをとっている。
その各々の班には,炉運転職員とごみを投入するクレーンマンが配置されている。
ある日の夜,夜勤班のクレーンマンが,昼間の疲れが出たのか,うっかり居眠りをしてしまった。
焼却炉というのは,投入口が炉の上の方についているので,炉の中で燃焼した炎が投入口から出てこないようにごみを常に投入して蓋をした状態にしておかなければならない。
その職員は居眠りをしていたので,投入口から煙が出ても,更に炎が出ても気付かず,その炎がごみピットの天井に燃え移り,煙がごみピット内に充満してようやく気が付いた。
旧今泉工場は,クレーン室から出る為にはその煙が充満しているごみピット内の投入口の脇を通らなげればならないようになっていた。
彼はクレーン室から助けを呼んで,ようやく助けだされたが,危なく煙に巻き込まれるところであった。
後日談だがそのクレーンマンの助けを求める姿がなんとも滑稽だったと,怪我がなかったからこそできる話である。
松森工場(昭和46年〜60年)の宮城県沖地震による煙突座屈
宮城県沖地震(昭和53年6月12日)の時の松森工場の事である。
宮城県沖地震は,本震の前に小さな揺れがあった。それは,煙突の修理を依頼されて業者が松森工場の煙突に登っていた時であった。
はじめの小さな揺れで,少々驚いたが,修理の材料もなくなり,夕方でもあり,そろそろ仕事を終わりにし降りようと思い,降り始めた時,マグニチュード7.8の大きな揺れが発生した。
煙突も大きく揺れた。その大きな揺れに驚いた業者は,ものすごい速さで降りてきたという。
それを見ていた人の話では「エテ公(サル)も真っ青(仙台弁で「マッツァオ」と言う。)になるぐらいの速さ。」だったという。
その直後,松森工場の煙突は二つに折れ,折れた煙突は,工場の電気集塵機の上に崩れ落ちた。
間一髪でその作業員は九死に一生を得たわけである。降りてくるタイミングがずれれば,大惨事につながったであろう。
その作業員は,恐ろしい経験のためしばらく高いところには登ろうとしなかったそうで,親方は「困った。困った。」と嘆いていたという事であった。