トラックでの収集
現在,ごみの収集は,パッカー車と呼ばれている車で行われている。それ以前は,5tトラックの荷台に積み込んでいたが,トラックのボディーには,高く積み上げられるような,ワクはなかった。そこで,作業員は一度に多くのごみを運ぼうと,工夫をしていた。そで,炭を売る時の入れ物であった藁製の「すみすご」と呼ばれたものが活躍した。その「すみすご」にごみを入れ,それを荷台の回りにブロック積みの要領で高く(約50〜60cm位)積み上げ,その内側に普通のごみを入れるというのである。いわゆる「さし枠」である。
その傾けかたに,テクニックが必要なのだ。直角では外側に崩れるし,内側に傾け過ぎると,ごみが積めなくなるし…。
この当時はトラックの荷台にごみを高く上げるので,作業としては大変に思えるのだが,(たまに間違って?頭からごみを落とされる人もいた。)不思議と,腰痛になる人はいなかった。現在の収集作業は,楽に見えるが,積み込み時に中腰になるためか,昔に比べ,腰痛になる人が多い。「今の人と昔の人では,鍛え方が違う」という先輩諸氏の声が聞こえてきそうである。
当時,一台三人乗りのトラックに五人乗っての作業であるが,二人は荷台に乗って移動した。昼休みは,職場に戻らず,町の中心に近い西公園で食事をとり午後の作業編成もそこで行っていた。そこは,休憩施設がないため,昼食をとるのに,天気の良い日はいいのだが,雨の日は荷台に乗っている二人の職員はごみトラックの下で昼食を食べることとなる。今では考えられないことである。
あがりものの話
昭和30年代の事である。向山地区で火事が発生した。その後片付けのため収集事業所の職員が動員された。作業をしていると,焼け跡から硬貨が両手で持ちきれないほど出てきた。家の人に連絡すると,2~3年前に亡くなったおばあちゃんの「へそくり」らしかった。家の人から片付けのお礼にという事でそっくり頂けることになった。持ち帰って両替をしようと思い地元の七十七銀行に持って行ったところ,焼け焦げの跡がついていたため交換してくれなかったものの,日本銀行に持っていきようやく交換してもらうことができた。金額は不明であるが,事業所の親睦会に入れて皆さんに喜ばれた。
同じく昭和30年代の事である。現在,営業ごみの収集は許可業者が行っているが,当時は,収集事業所の収集車が朝の5時から収集に出かけて行った。街中の日の出ビル,藤崎デパート,三越デパート,中央市場,青空市場等を回ってくるコースであった。日の出ビルの公衆電話では,深夜に酔っ払い(?)が忘れていった釣銭を集めたりした。また,市場の近くでは,充分食べられるが商品としては売れなくなった魚等が捨てられることもあった。これらは,その日の昼食のおかずに早変わりとなった。